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あの日の記憶  

9月25日、土曜日。
私は夫に子どもを預けて、一人で電車に乗って買い物に出かけた。
場所は学芸大学駅。いろいろと立ち寄りたいお店があったので、はじめから一人で出かけるつもりだった。
行く店行く店に気に入ったものが見つかって、私は両手にたくさん紙袋を提げていた。
気づけばもうすぐ4時半。そろそろ帰宅して、夕ごはんを作らなければいけない。私は急ぎ足で駅に向かった。
学芸大の商店街は土曜日の夕刻ということもあって、たくさんの人で賑わっていた。
私は交差点にさしかかった。もうすぐ駅である。
その交差点は商店街の道と、駒沢通りと目黒通りを結ぶようにして走る道路がクロスする場所だった。
道路はいつになく車で渋滞していた。交差点には右側からも左側からも車が半分進入しかかっていて、商店街の道を行く人は、そんな車の間を縫うようにして横断しているようだった。
私は一瞬足をとめた。私がその前を横切ることになるであろう方向の車は止まっていた。
眼鏡をかけたやや恰幅のいいおじさんが、連れの女性と、交差点に半分頭をつっこんで止まっている車の前を通るようにして、向こう側から私のいる方向に、道路を横断してくるのが見えた。
「よし、今なら渡れる。」私はそう思って、道路を横断しようとした。
私のすぐ右側の、やはり頭を交差点に半分つっこんで止まっている車のその中央部分にまで私が歩を進めたとき、突然その車の運転手がアクセルを踏んだ。
私の耳にエンジン音が聞こえた。「なにっ!」と私は思った。
一瞬の出来事だった。でもその一瞬の間にエンジン音を聞いた私は本能的に危険を察知した。
私とその車の間の距離は50cmあっただろうかというくらいだった。いくら咄嗟に危険を感じたところでどうすることもできなかった。
瞬間、私は竜巻にでも巻かれたような感覚に陥った。
そしてそれと同時に、今まで経験したことのない強烈な圧迫を胸に感じた。息が止まるかと思うほどのものすごい圧力だった。
苦しい、息ができない。『とめてっー!』私は事故にあっているんだと頭のどこかで感じながら強くそう思った。
何秒かののち、その竜巻と圧迫は終わった。
終わったかと思ったら、私の上に何かがバラバラっと降ってきた。降ってきたものは交差点の角にあるドラッグストアの資材で、ティッシュペーパーやトイレットペーパーのようだった。ティッシュペーパーらしき箱の角が顔に当たって痛かった。
「何やってんだーっ!!!」という男の人の叫ぶ声が聞こえた。
「どけてやれ、早くどけてやれっ。」という声も聞こえて、私の上に降ってきたものが取り除かれた。
そこで私ははじめて目を開けることができた。
私は仰向けに倒れていた。
頭を少しぶつけたようで痛かった。
右足のくるぶしのところが痛かった。怪我しているのだろう。その右足の靴が脱げていた。左足の靴は脱げていなかった。
体は動かなかった。体が痛くて、胸が苦しかった。
大変なことになってしまった、と思った。私は交通事故にあったのだ。
手や足が動くかどうか確かめてみた。足は動く。右手も動く。指も動く。でも、くの字に曲がったままの格好になった左腕は動かせなかった。動かそうとすると、肩が痛い。
倒れている私を見て、「動かすな動かすな。」と言う人の声が聞こえた。
「私は当直に行く途中で通りかかった、内科医です。お名前は?年齢は?」と言う男の人の声が聞こえた。
私は名前と年齢に です を付けて答えた。
「どこが痛いですか?」と訊かれ、「息が苦しいです。」と答えた。
脈をみてくれたようで、「バイタルは大丈夫だ」と言われた。
結局救急車が到着するまで、ずっとその内科医の男性がそばにいて、私の様子を見ていてくれた。
どなたか姿も確認できなかったが、女性の方が、「どなたか連絡しておいたほうがいい人はいますか?」と声をかけてくれた。
そうだ、夫には連絡しなければいけない。私はこのまま救急車に運ばれて、家には帰れないのだから。
私はかばんに携帯が入っていることを伝えて、暗証番号を教えロックを解除してもらった。が、しかし、他人の携帯の操作方法など分かるわけもなく、私も夫の携帯番号を覚えていない。仕方なく、自宅の電話番号を教えてかけてもらうことにした。夫は子供たちと近くのショッピングセンターに出かけるかもしれないと言っていた。案の定、自宅は留守番電話だった。「奥様が事故に遭われました。至急この携帯に電話をください。」というようなメッセージを吹きこんでくれる声が聞こえた。
私はしゃべるたびに呼吸が苦しくなっていった。
救急車が到着するまでの間がとても長かった。
翌週の月曜日、子どもが通う幼稚園のクラスの昼食会の予定があった。これは絶対行けない。あとで夫に連絡してもらわなけばいけない。
10月の連休には、実家の徳島から母と父がやってきて、私たち家族と一緒に2泊3日で旅行に行くことになっていた。そんな旅行はすごく久しぶりだったので、私もとても楽しみにしていた。でも多分これも行けない。みんな残念がるだろうなぁ。
10月16日には幼稚園の運動会がある。これは行けるだろうか?.....行けないかもしれない。
そんなことをいろいろ考えているうちに、待てよ、そもそも私、死んだりしないだろうか?と不吉な考えが頭をよぎった。以前見た医療もののドラマで、事故にあった人が散々しゃべったあとに結局亡くなるという内容のものを見た記憶がよみがえった。
どうしよう。死ぬのは困る。まだ小さな甘えたいさかりの息子たちをのこして死んでしまうわけにはいかない。伝えたいことがまだまだたくさんあるのに。こんなことなら子供たちとの時間をもっと大切にしておけばよかった。些細なことであんなに怒るんじゃなかった。そんな後悔ばかりが頭に浮かんだ。
そうしているうちに、警察だの救急隊だのが順に到着した。私は名前と年齢を何度もきかれた。呼吸が苦しくて、もうですますを付けて答える余裕はなくなっていた。喋るのも苦しくて、息が途切れ途切れになる。苦しいから、もう名前も年齢も言わせないでとお願いしたかった。
救急車のサイレンの音が聞こえたときは、少しだけホッとした。
頭や体を固定された状態で、私は救急車の中に運び込まれた。警察や救急隊の話し声で、私の他にも怪我人がいることが分かった。
私はまたどこが痛むのかきかれた。「息が、くるしい。どんどん苦しくなる。喋るのもくるしい。私死なない?」と言った。「うん、大丈夫よ。」と答えてくれたが、そんなときに分からないと答える救急隊は多分いない。
「念のため広尾病院に搬送するか。」という声が聞こえた。広尾病院、あの都心にある病院に私はいくのか....。
連絡先をきかれて、また携帯のロックを解除してもらって自宅に電話をかけてもらったが、やはり留守電。このままではいつまでたっても連絡がつかない。私は残る力を振り絞って、「ちょっと携帯かしてください。」と言い、必死で夫の携帯番号を呼び出した。「ここにかけて」と救急隊に電話を渡したら、ようやく電話が繋がった。
夫は驚くだろう。まさか私が事故にあったなど思いもしていないだろう。当然だ。私もまさか自分が事故に巻き込まれ、こんな恐ろしい目にあうなんて、想像もしていなかったのだから。夫はお腹をすかせた子供たちをつれて、病院に来なければならない。大変な迷惑をかけてしまう。

病院に運びこまれて、また名前と年齢を言わされた。でも病院に着いてしまうと、急にすごくほっとして、眠くなった。
「服を切ってもいいですか?」ときかれた。たいした服は着ていなかったけど、3枚重ね着しているうちの真ん中の一着は45rpmのもので、ちょっと高かったし気に入っていた。「えっ〜?切るんですかぁ。」と言うと、一応脱がせようとしてくれたが、左肩が動かないのでどうしようもない。「切りますよ。」と言われ、「はい...」と答えるしかなかった。
骨盤から頭部までのCTを撮ることになり、造影剤の副作用などの説明もされたが、いまいち頭に入ってこない。
体を移動させられるたびに激痛が走り、息もどんどん苦しくなるので眠ってしまいたかった。眠ろうとするたびに、「名前は?」ときかれて起こされた。
結果は脾臓(ひぞう)破裂。緊急手術をして摘出しなければけない。他の臓器は開いてみないと分からない。
「胸に傷が残るけど、いいですか?」と執刀医となる関西弁で喋るまだ若い男性の医師にきかれた。事の重大性がいまいち分からなくなってしまっている私は、「え、傷が残るんですかぁ?」と言った。「命にはかえられないからね。」と言われ、また「はい...」と答えるしかなかった。私はまた「死なないですか?」と聞いてみた。「大丈夫よ、でも呼んだら戻ってきてね。」と医師は答えた。どういう意味?と思ったが、それ以上は怖くて訊けなかった。
結局私は破裂した脾臓を摘出。両肺挫傷(肺の打撲)。左背中側の肋骨が第二肋骨から下まで10本骨折しているとのことだった。肋骨は全部で12本あるらしく、そのうちの10本が折れているのだから、その痛みときたら尋常ではなく、以後私はその肋骨骨折の痛みと戦うことになる。
ICUで2日間飲まず食わずの寝たきりで過ごし、その間床ずれができないようにと、ほぼ2時間おきに何人かがかりで寝返りを打たせられた。そのたびに肋骨に息が止まるほどの激痛が走り、生きた心地がしなかった。
2日後、肋骨の痛みを和らげるためにと、硬膜外ブロックという治療を受けることになった。脊髄の近くにカテーテルを通し、そこに局所麻酔薬を持続的に注入し続けるという治療で、これにより神経が麻痺した状態になり、痛みを感じにくくなるのである。効果は驚くべきものがあり、寝たきりだった私は、点滴棒につかまりながら、ゆっくりとだが自分で歩けるようになった。それでも最初の頃は、歩くたびに体の中で肋骨がぐぎぐぎっと音を立てて笑う感じがあり、気持ちが悪かった。
しかしこの硬膜外ブロック、とてもデリケートな部分に施術しているため、当然リスクがある。治療を初めて3日後に、背中の若干の痛みとかゆみを訴えたら、もしものこと(麻痺が残る)があったら大変だからと、外されてしまった。
一度天国を味わったあとに、地獄に戻される感じで、それから2日後もう一度硬膜外ブロックの治療を受けるまで、私は猛烈な痛みと苦しさに耐えかねた。それは耐え難い痛みであろうということで、私は医師曰く中毒性はないけれど、麻薬のような作用をもつという薬の点滴を受けた。その強い痛み止めの効果は抜群で、効いている間はふわふわっと体が飛んでいくような心持ちがして、気持ち良くさえあった。ただ痛みは楽になるけれど、体がだらんとして力が入らず、ただただ寝ているよりほかなかった。
打撲していた肺は自然に治癒した。様子を見て、血液が溜まったままだったら機会を見て手術することになると言われていた。
結局事故後2週間で、私は硬膜外ブロックを施術しなくても、病院での生活を送ることができるようになった。
その後さらに2週間で、私はフラットな状態のベッドから自力で起き上がれるようになり、退院した。

失ったものもあるけれど、得たものもたくさんあった。
家族の愛情、友だちの優しさをいっぱい感じた。
出産のとき以外入院したことなんてなかった私は、入院しなければ出会わなかった人たちにたくさん出会った。
事故に遭ったのは不運なことだったが、不幸中の幸いもいっぱいすぎるほどあった。
事故を起こした人は、その日慣れない車を運転していて、ブレーキとアクセルを踏み間違えたのだそうだ。私はあんな至近距離からブレーキとアクセルを踏み間違えた車にひかれて、車にぶつかったところから、5mほど離れたところに倒れていたのだ。引きづられたのだろうか?
あの日商店街にはたくさんの歩行者がいたが、警察は私がひかれたところを見たという目撃者は確保できなかったようだ。私は生きているし、ひき逃げでもないので鑑識までは出てこない。どのようにひかれたのか謎のままである。
ただ車は私の右側からぶつかったのに、私は左側に大きな損傷を負っている。そして私は事故当時、右側に大きな紙袋を提げていた。中には古道具屋で買った、薄っぺらな木でできた小引き出しまでついている大きな本棚が入っていた。竜巻に巻かれたように感じたのは、車が最初に本棚にぶつかって、私はそれを軸に回転して、車の下に引きずり込まれたのではないだろうか。
私は見えていなかったので、覚えはないが、私は車の下にいて、現場にいた人たちが車を持ち上げて、私を救助しようとしたらしい。私は自分が車の下にいたとは知らなかった。なんて恐ろしいことだろう...。
そのあと、ドラッグストアの資材が私の上に落ちてきたのだ。
事故当時、最初に到着した警察が「車の下にいたという感覚はありますか?」とか「タイヤが乗ったというような感覚はありますか?」というような内容のことを、確か私に聞いてきた。そんなの分からない。私は暗闇のなかで、竜巻に巻かれた感じになり、息も止まるほどの強い圧迫を感じたことしか分からない。
私以外に5人ほど、その事故に巻き込まれたそうだ。他の人はすべて軽症、私だけ重症。当たり前だ、私がその車に一番近いところにいたのだから。
当時の事故のそういった事実が分かるたびに、私は恐ろしくなり、あの日あの時あの場所で、私は死んでいてもおかしくなかった、むしろ生きていたのが不思議なくらいだと強く思うようになっていった。
私は幸運にも命が助かった。そして、手も足も動くのだ。肋骨骨折のうえに、足まで骨折していたら、さらに不自由な体に苦しんだだろう。私は自分で歩くことができる。料理だって作ることができる。
脳や脊髄をやられていたら、たとえ命が助かったとしても、生涯重い後遺症に苦しむことになっていただろう。
脾臓(ひぞう)ではなく、他のもっと重要な臓器が破裂していたら、やはり後遺症に苦しんだだろう。
脾臓は出血しやすい臓器である。当時でさえ、私の腹部では1リットルの出血があったらしい。搬送が遅れていたら、やはり命はなかったかもしれない。
生かされたという考えが頭に浮かんだ。私は生かされた。
人の役に立ちたいと思った。
私に何ができるかまだ分からないけれど、人の役に立てることが何かあるはずだ。
私は命が助かった。そしてまた子供たちに触れることができた。なんという幸せだろう。これ以上の幸せがあるだろうか!
私は生かされ、またこの幸せをかみしめることができた。
まずは二人の息子たちをきちんと育てる。人の役に立つ仕事ができる大人に育ってくれるのを見守る。
前々からそう思っていたけれど、その思いが一層強くなった。
そして私自身も家族以外の人の役にも立てる人間になりたい。
のんきに主婦をやってきた今の私にできることは少ない。
でも周りの小さなことからでもいいから始めたいと思っている。